2011/04/11

すべてのひとに『ヒアアフター(来世)』を贈ろう。


※東日本大震災をうけて公式サイトもなくなり、上映も中止されたらしい。
津波のシーンがあるのでいまはそれも仕方ないかもしれないけど、この映画自体は津波をメインにあつかったパニック映画ではないし、むしろ再生の物語であるのでいつか普通に見れる日がくるといいなと思う。
(ただしすでに津波がトラウマになっているひとは見てはいけない)
以下は震災前に書き綴っていたもの。
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そこで人は死に直面したことにより孤独になりつつも新しい一歩を踏み出そうと行動する。
イーストウッドは、ひとが葛藤しながらも新しい生を模索することは、しごく当然のことだといった風情で、光と色彩とユーモアとスペクタクル(かつて誰も見たことのない津波の迫真性!!のほかにも、、、○○○事故など)にあふれた世界で、問題に直面しているひとびとをあたたかく包みこむ。
その世界は徹底して現世であり、霊能力を持つマット・デイモンと題名の『来世』から想像される「あの世」が描写されることはない。
臨死体験はあくまで朦朧とした意識の表現にとどまっており、ファンタジーは排除されている。
にもかかわらず、それまで見たことも会ったこともない男女が一瞬視線を交わし、指が一本触れあっただけで結ばてしまうという信じがたいメロドラマが、脚本と演出の両方であっけらかんと導入されるさまはどうだろう。

また『マディソン郡の橋』の男女ふたりの閉じた関係とは違い、子供が加わることによる三角関係により物語は開かれる。
メロドラマを担う男女のほか、父親、母親、子供、と「赦し」のテーマがすべり込まれることになる。

だれもが何やら重い問題をかかえつつも前進しようとするなかで、ブライス・ダラス・ハワードが中心となる一連のシーンがある。
そこでのエロティックなシーンの演出は、監督の余裕で遊んでいるように見えてその実、必要最小限で最大の効果をあげていたことに気づくのは、その後の急降下する展開に息もつまり、あれやこれやがあったのち、先述の恋が成就するシーンにいたってからである。

二度ピークが来る。一度目はだれもが「見えない」が、二度目はだれもが見えている。

と、このように『ヒアアフター』の脚本と演出をなんとなく分析することもできよう。そんなことはどうでもよろしい。
なによりも『来世』の側に立っているのはクリント・イーストウッド(80)その人であり、『来世』からの視点で全体を静かに見渡しているとしか思えない、この澄みわたった映画はすばらしいと同時に神による、人類に対する慈悲なのだろうか?

最後に、マット・デイモンと結ばれるもうひとりの主役と云うべきセシル・ドゥ・フランスは、これまでのどこかクセのあるイーストウッド的女優を超えて最高にすばらしいことはいうまでもない。



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