2010/01/17

アバター 3D の監督を徹底解剖する


いきなりネタバレ。

『アバター』は地球人がナヴィになるまでを描いたものであり、『タイタニック』が船の沈む過程を描いたのと同じく、その物語の流れは結末に向けてまったく滞ることがない。

そしていつものように、人(の形をした存在)の死と同時に物語も終わりを迎える。アバターもタイタニックもターミネーターもエイリアン(チ○コの形を人の形とみなすならw)もその点において変わりはない。

恐らくこの監督のヒットの秘密とは、主役級の死と物語をリンクさせることにより、最大限のカタルシスを観客にもたらす悲劇の形式を、忠実に律儀に作り上げているということなのだろう。
いうまでもなく悲劇とは安心な快楽に他ならない。「悲劇が起こる場所とはちがい、自分たちは完全に安全な場所にいる」からである。
悲劇の形式を最大限に利用するJ.キャメロン監督。
(ここでの悲劇とはあくまで1個体の死であり、それに付随する物語であって、正とか悪とかは関係ない)

しかし『タイタニック』から10年以上たち、最早ウェルメイドな出来では満足しない贅沢な観客がここにいる。
映画の面白さとは、物語だけでなく、ショットやシーンや演出や編集の過剰な豊かさや過剰な欠落やちょっとした破綻にあることを知ってしまった者としては納得できない。

それに登場人物に魅力がなさすぎて困っちゃう。大佐なんて重要な役どころなのに、主演であるブラッド・ピットを食う勢いの、『イングロリアス・バスターズ』(タランティーノ)の大佐と比べるまでもなく、その辺の戦争映画と比べても酷すぎないか?(ただしその平凡さが破綻のなさに貢献するのだが)


で、3Dはどうだったかというと、3Dメガネを装着した瞬間オォォォと思う。

しかし人間は慣れる動物であるから、数分後には普段の映画と変わらない心持ちで見ている。
そしてここでもキャメロン監督のウェルメイドさが頭をもたげるのだが、戦闘シーンなどが優等生すぎて、3Dの真価を味わう以前に映画に乗れない。
『デス・プルーフ』(タランティーノ)の、映画の底力というべきものを知っている身としては退屈すぎる。

例えば『プライベート・ライアン』や『父親たちの星条旗』をこの3Dで見れればすごいような気はする。ホラーとか面白そう。あるいは『ロスト・ハイウェイ』なんかさらに気味悪くなるんじゃないか。

と、いうわけで、3Dがこれまでの映画を覆すほどの脅威ではなさそうだし、「ベストセラーは普段本を読まない人が買うからベストセラーになる」のと同じように、「普段映画を見ない人には十分楽しめる」キャメロン監督なのだと思われる。


と、思ったのだが、なんかべた褒め肯定派が多いように感じるので、ちょっと考えてみた。
要するに、『アバター』を「映画」としてみるか「アニメ」の延長でみるかの違いではないかと思う。
「アニメ」の延長でみるなら、子供だましのような物語や、(CGなので)絶対に死なないと分かっている飛行シーンや空中戦も気にせず楽しめるのかもしれない。
でもアニメなら、宮崎駿の「絵の運動感」の方がよっぽど面白いと思うけどなあ・・。


結局のところ、本編前の、イーストウッドの最新作の予告が一番印象に残ってしまったーー


See also:
blognotes2: 今宵タランティーノに、有楽町で逢いましょう
blognotes2: 映画シリーズ2010

0 件のコメント:

コメントを投稿