2005/03/20
北野武、加速する映画 -『座頭市』e.t.c.-
北野武監督の映画は、加速だ。スピードではなく、加速。
それぞれの映画の基調となるスピードは、ゆるやかでありも速くありもするのだが、最終的にはスピードの加速によっていままで体験したことのない映画体験をもたらすのだ。
それはまさしく体験であり、加速を観ることはできない。
加速であるからこそ、彼の映画は痛いのだし、異様な爽快感をもたらしてくれるのだし、見どころといえば、加速が起こるまえと起こったあとの、わたしたちの、なんともいえない感覚なので、見どころを説明しようとしてもうまくできないのだ。
ストーリーを追うことではなく、剥き出しの映像群に身をまかせてみること。そうすれば、体験したも同然だ。そのあいだにある加速を。
この点でみて世界的に唯一無二の監督であることは間違いないし、“いわゆる映画として”穴があるのに評価されている理由もここにあると思う。
ソナチネ、HANA-BIが死の映画なら、座頭市は生の映画である(BROTHERもかな)。
主人公が死なないということから、映画全体のトーンに至るまでそんな印象をうけた。いつもより美しさが希薄だとも感じた。生と死がコインの裏表だとしたら、美しさは死の側に属するのかもしれない。
この映画は自分自身の生をいきることから、社会というシステムが生きながらえていく様子まで見せてくれるように感じた。
生きていくことはただ単に楽しいことだけではないのだろう。つねに過去と共にある。みんなに過去がある。一面では悪人でも一面ではやさしいおじちゃんだ。本当の本当の本当の黒幕はだれにも“見えない”。空席となった権力という名のカウンターに座ってしまえば、自分が嫌悪していたものを将来自分で繰り返してしまう可能性だってある。なにしろもはや自分たちがこの村(街?)で一番の実力者なのだから。今この時点ではだれもそんなことに気づかずに人生はつづいて行く……。
そして楽しいことがある。生活のふとしたところに、日常のちょっとしたところに楽しいことがある。それに気づくのはその人次第だ。一部が全体となり、全体がうねりとなり、うねりが身体を突き抜け、自分のこと、自分のまわりのことから自由になれる。
座頭市においてはそれまでの作品とちがい、もはや主人公は悩まない。社会と自分との関係性で悩んでいるのは、姉弟や脇役陣のほうで、彼ら彼女らはついに忌まわしい過去を清算し、にこやかな笑みをたたえているのだが、まだ市ほどの超越性には程遠い。
See also:
blognotes2: 全部黒。そこに永遠の白が口を開く。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿