2005/03/20

侯孝賢、放り出される映画 -『珈琲時光』-


放り出されたモノを見るときのように。
たとえば優雅な放物線を描く野球のフライボールの軌跡を追いかけるときのように。そのあいだ、われわれはボールの軌跡になにも関与することができない、ただただ眺めることしかできない状態。
そのただただ眺めているあいだの、過不足のない感情。または無感情。幸福とも充実とも無縁に、自分が放物線の軌跡に同調しはじめる、優雅さの予感。


この『珈琲時光』は、とらえられた電車の動きだけでなく、部屋も風景も街も人物もすべてが放り出されている。(光、乱反射、透過する布、田園、樹々のゆらめき、錯綜した人口物、CG、etc...)

放り出された役者がすばらしい。娘の問題を知って放り出された小林稔侍演ずる「父親」は沈黙し、余貴美子演ずる「母親」は放り出されたことにより不安になったのか退行して娘の一青窈より幼く感じられ、ほかにマスターのマスター度、古書店の店員の店員度、アパートの隣人の隣人度、未亡人の未亡人度の、まさに「マスター」、「店員」、「隣人」、「未亡人」としか言いようのなさがすばらしい。だがしかしなによりも、浅野忠信は放り出される以前からすでに自ら放り出ていたひとであって、いわゆる「自然体」と表現できるだろう演技が、自然体という枠を超えてどうしてこうもすばらしいものに感じられるのか。
考えてみると、『ミレニアム・マンボ』のスー・チーをはじめとした役者はどこか痛々しくはなかっただろうか?それは放り出されることを拒否していたのだ、としか思えない。それにくらべ、『非情城市』のトニー・レオンの笑顔はまったくホウ・シャオシェン的ななにかを放ってはいないか。
だからといって『ミレニアム・マンボ』が失敗作だというのではなく、これらの役者こそがまさしく現実をしっかりと反映した、なにかしらの本質を突いているように思えるのだ。そして、それを可能にするホウ・シャオシェンの演出法に、シビレる。
この一見シンプルな画面が内包する過激さと、この説得力は、ナンなのか。
ホウ監督は、ゴダールの映画が断片の映画であるように、北野武の映画が加速の映画であるように、小津のスタイルが小津以外にないように、まさにとりかえのきかない唯一のひとなのだ。
「放り出す」ということの厳密さのなかに、なんらかの余韻に浸れる領域がそれとなく開かれ、そこにいつのまに作品を反芻している自分を見出すことだろう。

ところで一青窈も、一見放り出されて、主人公というよりもほかの端役の1人として紛れ込んでいるように見えはする。ところが問題の関係性がなにも映像的に明示されず、解決もされないために、サスペンス的緊張を保ち、そのために観客の視線を一身にひき受ける、という意味でまさしく主演なのであった。
そうしたことから、映画には中心的に視線を集める存在がいたほうが、作品が締まるように思える。というより、のちのち、忘れていたころふと雑誌などで写真を見かけると、あぁあれね、と作品全体のイメージを思い浮かべることが容易にできるのだ(中心がいないと、ロバート・アルトマンのように散漫な印象だけが残りはしないか。ちょろちょろっとしたいくつかの場面を思い出しはすれども、全体的な印象はまるで残っていないのだ)
中心は三船敏郎やジョン・ウェインのような圧倒的な存在感であったり、ハリウッドが追い求める「物語」の中心人物であったり、また印象的なアップで、というキャメラの人物の捉えかたであったりいろいろであろう。
そして『珈琲時光』をほかの同監督の作品より気に入っている点があるとしたら、これまでの人物の群像的・散在的扱いはまるで変わらず、中心的な存在はいないようなのだが、実はサスペンス的要素によって存在しているのだ、ということではないだろうか。

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