わたしは、スティービー・ワンダーの曲はきれいすぎると昔から思っている。きれいさしかないと言うべきか。それは目が見えないことと関係していると思う。
わたしたちが見ている現実の世界とスティービー・ワンダーの曲のあいだには差があって、曲の方がきれいだ。現実は、もうちょっと色々なものが混じっているものだと思う。
何かの光景を「見てしまう」というのは決定的なことなのかもしれない。それは美しいことばかりではなく、醜いことも含まれている。
例えば、WTCに突っ込んだジェット機を見たのと、音だけを聞いたのでは、印象がまるっきりちがうはずだ。
とすると、目が見える人と見えない人とでは、何かの光景が焼きつくということがない分、現実の世界に対する認識もちがってくるだろう。
オルタナティブやインダストリアルの人たちとスティービー・ワンダーとの差は相当なものではないだろうか。とても同じ国の人たちとは思えない。
この差は何なのか。目なのか?
スティービー・ワンダーの曲には醜さの痕跡がない。とはいえロックの人たちのノイズギターが醜いとも言えない。ノイズにもきもちいいノイズと不快なノイズがあるのだ。しかし濁りはある。ギターだけじゃなく声や曲としても相当濁りがある。
盲目の人の音楽には、濁りがない。
どちらにも音楽である限り美しい曲が存在するのだが、盲目の人の現実には目が見えない分、何かが沈殿し鬱積することがないのではないか。
アメリカの暗部というものがあると思うが、スティービー・ワンダーの曲を聴く限り、人間は、少なくとも目以外の感覚においては、きれいなもの美しいものに素直に反応し、印象として残している。なにか濁りがあるようなものは通過させるだけに留めている。そんな気がするのである。
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